ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(原題/Mishima: A Life In Four Chapters)(1985年 アメリカ、日本 監督/ポール・シュレイダー)
日本未公開だったのだね。完成から随分時間が経っているので、もう日本でも公開しているものだと思っていた。
アメリカでの劇場公開で話題になっていたような気がする。角川のエンタメ雑誌の白黒ページで見た記憶があって、興味はあった。当時は変なものや突拍子の無いものだったら何でも良いと思っていたのだ。
映画の構成はフィクションとドキュメンタリーを折り重なるように作られている。フィクション部分は三島由紀夫さんの小説の映画化というか、映像化のようなもので、映画化ではないのはそれが舞台の様な形式になっているからだ。このフィクション部分のせいなのか、元々そういうものなのか、ドキュメンタリーパートもキッチュな感じがする。これが現実に行われた実感が全く持てない。肉体改造も楯の会の制服も、楯の会自体もコスプレ感覚が強く、あえていうならリアルバットマンで、コスプレ無しでは自分が出せないのかと思った。ここでいうリアルとは出川哲朗氏におけるリアルガチとの差は無いと思う。
勿論、高度に文学的であり高尚な内容なので笑ってはいけない。しかし、なんだか可笑しい。1970年の日本で起きたこととはやっぱり実感できない。極度の緊張と現実との乖離は滑稽を生むのか。
バルコニーでの演説は劇中のように聞きやすいものかと思っていたが、実際は野次も多く、マイクなども使わずだったので殆ど聞き取れなかったようですね。
劇中での演説は画角が狭く、一人ぽつんといるのにやたら熱く叫んでいて、その声がどこにも届いていないのが、さらに可笑しく見える。可笑しさは時代錯誤から来るのか。笑っちゃいないんだが。
肉体改造も楯の会も、政治的であることより、単純に見た目で始めたことじゃないのかな。こういうことをしている俺は何て恰好良いんだろうとか。制服に対するフェティシズムなどがむしろウェイトが高かったんじゃないかな。
童貞が女の子に何も出来ずにあきれられるシーンより、その直後の笠智衆演じる僧侶とのやり取りのほうが、童貞を良く表していた。映画は常々、童貞中二の男のものだと思っていて、こういった極端に整理されたシーンが特にそう思わせる部分かな。童貞をリアルに描いていたらそれで良しとかそういう馬鹿っぽいことじゃなくてね。
ラストの全ての物語の死が三島の想像する美のようだった。