怪獣映画で気になるのは、怪獣が大きく見えるにはどうしたらいいのかということ。
日本で作られた怪獣映画で怪獣が大きく見えるのは、1984年のゴジラ以降で、それでも大きく見えることは少ない。所謂怪獣映画の黄金期と云われていそうな時期の怪獣は見事に大きく見えない。大きさと共に中に人が入っている着ぐるみに見える。これを芸として捕らえられれば良かったけど、アメリカでゴジラを作ってしまったので、そういう言い訳も辛くなってると思う。鯖を喰って大不評のゴジラもゴジラには見えなかったかもしれないが、中に人が入っている着ぐるみには見えなかったし、物凄く大きな生き物には見えた。
着ぐるみでリアリティが得られないが、それは日本の伝統芸だとしてしまうのは、運動会の短距離走でデブがびりでゴールするのを拍手で迎えるあれだと思う。惨めだ。ちなみに僕はデブでもないのにブービーだった為により惨めだった。あと5km程延長して走らせてもらえれば三位までに入るのに。
作り物なのかそうでないのか、ミニチュアかコンピュータで作ったものか、それはその時点で選択できる最善の方法であればどれでもいいと思う。大切なのは物語に必要な映像が得られるかだ。
俯瞰で撮れば大きく見える。だから怪獣は俯瞰で撮らなければならない。と、俯瞰縛りを作ってしまうのも変な話で、俯瞰以外全てダメとなると絵が限られてしまう。所謂神の目だとしても、それが人が見た目である演出、エクスキューズ、言い訳があれば成立すると思う。実際、そういうアングルでも怪獣が巨大に見える映画はある。比較対象物を作ることで大きさを表すことも出来る。取り立てて難しくも新しくも無いことだ。でも巨大であることはどうでもよいなら考えなくていいんだろう。それなのに時代によってゴジラの身長設定が大きいほうへ変更されているのは何故だろう。
ゴジラと戦う決戦兵器は自然発生的になんとなく登場し、役に立たないまま巨大化と高機能化(なのに役に立っていないことが多い)していく。ゴジラ世界の中のリアリティレベルがどんどん下がり、それどころか、他所の作品世界のレベルを取り入れざるを得ないくらいに人気が落ちてしまった。ジェットジャガーもゴジラ世界のリアリティじゃなく、こんなの東映のアニメのレベルじゃん。これに限らず東宝は結果的に東映の特撮或いはアニメの作品世界に負けている。なぜジェットジャガーを例に出しているかというと、このロボットのカラーリングはジェットジャガーをほぼそのまま取り入れているからだ。
負けるのは怪獣映画についての視点の差じゃないかな。東映のヒーローものは結局巨大怪獣と巨大メカの戦いがメインになっているので、こちらも東宝に負けているといえばそれまでだが、取り入れ方が上手い。嫌な言い方だが、東映はあくまでもおもちゃを売る切っ掛けとして作っていて、だからって単におもちゃが登場すればよいような作りではなく、おもちゃを買ってもらうために親を説得する仕組みをいくつも考えているのではないかな。東宝はそれがない。今に近づくほど登場するメカものにはプレイバリューをできるだけ仕込むようにはなっているものの、劇中ではそんなに活かされていない。それはゴジラが悪役であっても主役なので負けるわけにはいかないからだ。ぽっと出のマーチャンダイジングに負けてしまってはシリーズ作品としての体裁が立たない。メカゴジラの役立たずなかっこいいランドセルはゴジラ世界の中では役に立ってはいけないのだ。あ、これだけ先に描いたので細部が違います。ネーミングも平和そうなものがいいね。キズナZとか。
でこれは何かと問うならば、怪獣DOGLLAを殲滅するための決戦兵器で、何時出現するか分からない、もしかしたらいないかもしれない怪獣と戦う為に開発されていた。必殺武器は口から発射する冷凍光線か熱線。