死ぬのはいつかと問うならば、今でしょ。では無い。
えっと、ここで云う死とは個人的な気持ちとして、今死にたいとかそういうことではなく、物語の要素としての死だ。
こうやって断りをいれなければならない時点で、アウトなんだが、今回は死をアイテムしなければならない。死自体に関しての考察は今回はしない。特殊なアイテムとしての死と想定してもらいたい。
しかし、時代劇や特撮ヒーローものの悪役は最後に死ぬことが多い。おもに殺されるのだが、最近の特撮ヒーローものでは死ぬことは少ない。多分乳幼児が視聴対象者であることを強く意識しているのだろう。と云うくらい、死を扱うことは予備知識がいるのだ。
だからといって勿体ぶって死ねばいいことじゃない。
死自体についてどうなのかということを描くと、単純に驚くことを重ねていくことになりやすい。
斬新な死に方、殺され方を重ねると死のインフレを招く。死を少年ジャンプで連載される漫画の殆どの物語のフォーマットの暴力としての強さと置き換えても話は同じで、どうやってびっくりさせるか、サプライズを発想するだけになってしまう。驚きを重ねても感覚の麻痺は起こるので、次第に驚かなくなってしまう。
ここに死がある。それはいつ起きたのか、なぜ起きたのか。なぜ死なのか。といったモチーフにまつわる話題を構築していくと死のインフレも起き辛く、死というモチーフが活きてくるのではないかと思う。死んでるんだけど。
三世代が暮らすことが一般的だった頃や家畜を飼うことがよくある時代は、死が近くにあったかもしれない。でも今は違うので物語の中の死についても立ち居地が変化してくるのではと思うし、書き手の死に対する距離感もあると思う。僕は軽く扱えない。
じゃ、非日常がそれでありその中で遊ぶことを面白いとは個人的には云えない。何故ならば、非日常を日常的に作っているからだ。それは単なる空想であったり、紙に描いた絵であったり、コンピューターで作ったグラフィックスであったり。それは現実ではないじゃないか、つまらないよ。と云われても、現実ではないから構築できる非日常であるし、単に変わっているだけを少し前のテレビで卑猥な言葉だけを放送禁止用語の様に言い、その後で「あぶねー!」って和気藹々としているのは、恋に恋する経験不足な子どもでしかないのではと思ってしまう。
物語を作っているだけなので、その経験不足の子どもの視点から見た物事を描いても良いのだが、それを言い出すと話が広がりすぎるから、ここでは言わない。
非日常といえば、幼少の頃から漫画やTVドラマなどに親しんでいるので、ことさら日常ではないことを強調したいと思わないのかもしれない。
例えば怪獣が登場したとすると、それが特殊な状況で、凄いねー、びっくりするね!ではなく、怪獣が存在することをできるだけ自然になるように状況や設定を考えてしまう。その状況や設定がドラマになっているのだけど。ガンダムにおけるミノフスキー粒子だね。あれは不自然を自然にする粉だ。
表題のコント殺人事件とは、殺人事件のコントなのか、コントを演じているときに殺人が起きたのか、未だにはっきりしていないが殺人事件のコントを演じているときに起きてしまった殺人事件だろう。その殺人が他殺なのか自殺なのか、故意なのかそうではないのか、まあそういうことを描くのだろうがよくある話だよね。
というようなことを昨日のUSTで話したと思った。
ちなみに死体に扮してポーズを取り写真に納まるという手法は既に過ぎ去った流行であり、その行為自体が新規で面白いものではなくなっている。