地元の庶民的名産、ドテ、あるいはドテ丼を市外、県外の方々に食べてもらうには。というか、店あんの?という件。
その前に地元ではドテ煮とは言わず、単にドテという場合が多い。マンガをマンガ本と言わないようなものだ。マンガ本という人は漫画に興味のない人のように、ドテを食べたい。もしくは通であると主張したいならここはひとつ「ドテ」と言ってみよう。何より一々ドテ煮って言われるとイラッと来ます。
ちなみに書いていることはほぼ想像であり、資料的価値はありません。
店はあり、問題なくドテを食べることができる。時間さえ許せばドテドンのドテ丼を用意することも可能だ。ドテドンのドテ丼はフリーマーケットでしか出店していないのです。
それはさておき、可能な店は一見さんには敷居の高い店構えで、むしろ敷居が低すぎて暖簾をくぐることが躊躇《ためら》われるというのが正解だろう、端的には汚い店が多いのだ。店内の壁はうっすらと油が層を作り、換気扇やガスコンロはそれ以上の油をまとったためにまるで、それらが油で出来たオブジェのようになり、店のおやじの掛け声から出るつばや、ラーメンに突っ込んだ指、神棚のように供えられたTVから流れるいつの時代のものか分からない相撲中継。あからさまに金の臭いしかしない笑顔の政治家ポスター、これら全てが料理に欠かせないエッセンスのように馴染み、仁義なき戦い感が充満している。今ならアウトレイジ感だ。感が充満しているだけで実際は普通の店だ。しかし、おしゃれ飲食店ではないためにそれ以上のローカルルールが阿吽の呼吸で存在する。ここが暖簾の結界を強くしている部分だ。結界を突破するにはしつこく通うしか道は無いが、入れたからと言って長居はできない。ビールをひっかけながらドテと餃子を突きながらラーメンを待つ。ラーメンを一気にすすり尽くせば店を後にしなければならない。じっくり話す、または料理を自分の時間で味わうといったことはできない。まして写真など撮るなど論外である。
このような店の立喰師として、混雑した店の中をアクロバティックな動きですり抜けただ食いする赤ちょうちんのヒロという男がいるらしい。
このような立喰師の噂が出るように店内は混雑していることが多い。それはただ店が狭いだけだが、客の滞留時間が短いために常に人は入れ替わっている。
ルールはまだある。メニューが安定していない。開店直後に行けば、まだドテは出来上がっておらず、かといって数時間後であればドテは品切れ。しかし、また数時間後には出来上がっているのだ。なのに今度は餃子が無い。怒ってはいけない。そういうものだ。
なにより人生のエアポケットのような時間を過ごすことがこういった店、便宜上、赤ちょうちんと呼称するが、赤ちょうちんの常とするものだが、それこそが店のアイデンティティであり、ドテの味を維持しているのだ。ここで興味を持って赤ちょうちんの暖簾をくぐってみたいと思うところだが、探すと見つからないのが赤ちょうちんだ。虚心坦懐の心を持つことが大切である。
唐突な発想でこの赤ちょうちんを地域活性化、あるいは若手の起業として選んだとする。つまり無心に平静を保つ心より、金儲けとすることで赤ちょうちんを目の前に浮かび上がらそうというわけだ。答えとしては否であるが、それはウェザリングやエイジングなどの疑似的な効果として表現された油汚れなどは所詮幻想であり、本来必要であった時間の蓄積が欠落しているために体感されるものが偽善でしかないのだ。
またこの見た目の処理などが完全であったとしても、本来可処分所得が高く、まず最初に顧客対象と想定すべき2016年現在の三十代から四十代女性が寄り付かないという致命的な問題が存在するのです。
脱線した話として、この2016年現在三十代女性と年代を指定しているのは、この年代は高度成長期辺りに生まれた人たちです。この年代が生まれてから常に社会の顧客対象になっています。小学生、高校生、大学生、社会人、結婚後、子供が生まれてからはその子供への投資としての購買。社会人や大学生時代に関しては自身が直接顧客ではなくても彼女たちのために大人、はっきり言うとおっさんが財布を開いている。つまり、時代が進むと共に顧客対象の年齢も単に上にシフトしているに過ぎないのでありました。てことで、この先に儲けとするなら高齢者(今の三~四十代)を顧客とする業務形態を選択すべきってことか。
故にドテによる街起こし、あるいは起業とするならば、赤ちょうちんをシミュレーションした店舗とドテというのはハズレであり、フェイクであったとしても清潔とおしゃれで構築された店舗のなくては存在できないのだ。人工的に作ることのできない店、それが赤ちょうちんであり、即物的に作るのことできない味、ドテであった。