50歳

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昨日、兄の50回目の法要があり、これで法要はおしまい。
あんまり他所に言ってないが、僕が生まれる数年前に兄が生まれて数日後に亡くなっているのだ。
僕がそのことを知ったのは物心ついて小学校に入るかその前くらいだ。仏壇にある幾つかの位牌について聞いた時だ。そのくらい親も積極的に亡くなったことを伝えなかった。
亡くなった理由も何十年もはぐらかしてしか教えてくれなかったが、僕もそんなに一生懸命に理由を聞かなかった。なにせ長男が亡くなっているのにその後に生まれた僕が長男になっているくらいだ。事務手続き上はいない人なのだ。ちなみに名前も無い。名づける前に死んだのだ。なぜそうしたのかは分からない。多分、すぐ死んだから別にいいと思ったんだろう。まともに供養したのは僕が生まれてかららしい。まるで冷たい家庭のようだが、当時の感覚ではそんなものだったんだろう。それこそ戦中や戦前ならまた産めばいいくらいの感覚だと思う。それを非難しても仕方がない。

死因については聞いた人がドン引きかつ説明が面倒なので割愛するが、身内が死んでいてもその場に居なかったり、亡くなったことをきちんと実感できるような説明がないと、全く印象が無い。あとから亡くなったと聞いたから、ああ、いたんだなと説明として受け取れるだけで、兄弟が亡くなっていたという感慨は全く無い。完全に親の幻想に付き合っている感覚だ。もちろん亡くなったのは事実だが、実感が無いのだ。当たり前だ、その場にいないんだから。
うちは呪いのように長男が幼くして死んでいる。母の兄も子供の頃、早くに亡くなっているのだ。じゃぁ、きちんと伝えろよと思うものの、田舎の貧しい暮らしの家庭に文化度の高いことを望んでも辛いばかりなんだ。

ということで、子供には理解出来ようがが出来なかろうが、色々あったことを実感してもらいたいなら、早いうちからきちんと説明しておかないと生まれる前のことは実感できないよってことです。おかげで僕は、亡くなった兄のことを兄と書くことさえ虚構を書いているような気分になるのだ。

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