アウトレイジ 最終章(英題/OUTRAGE CODA、監督/北野武、2017年、日本)
アウトレイジ最終章やっと見にいけたよ。
終わるための映画だね、続ける物語が多い時代に終わらせるための物語を作っている。シリーズ化やサーガにすると物語ではなく作品世界の歴史を描くことになるので終わりが無くなるんだ。売れる商品としては正解でも物語として痩せていくんだろうな。そうでない場合は例えばガンダムシリーズのGガンダムのようなカンフル剤が必要になると思う。映画が作品になるためには終わらなくてはならない。ならないって程厳しくも堅苦しくも無いけど。シリーズの終わりでありながら監督のフィルモグラフィとしては新たなスタートの映画ではないかな。直接描いてはいないが次の映像がすでに決まっているかのような。
主人公が死ねば終わりだ、続けられないなんて短絡的でなく、高齢者が生き残り、若者が死んでいく事で未来が無い事を描いている。続けるためには若者が生きることを描かなければならない。まだまだ元気な高齢者はそれだけ取り出せばいい話になっても将来に繋がらない。
若者を歳が若い事より、台頭する若手を潰す事で若さを表現しているので、後から怖さが伝わってくる。花田は若いが古参の幹部の傀儡になっていて若さが無い。若者たちは自らが未来である事を自覚ないまま死ぬし、老人たちは将来を譲ることなく居座り続け、未来を閉ざす。
大友はただ殺すためだけに登場している。ターミネーターだ。最後に大友は死ぬが、この自殺はこれまでの北野映画の自殺とは違い、これで終わってはっきりわかるだろ!コノヤロー!と観客にダメ押ししているものじゃないかな。若手をどんどん殺していく事こそ、これが最後である意味なのだろう。
フィジカルな暴力表現が少ないので、瞬間的な怖さはあまり無い。暴力のエンタメで始まったアウトレイジが三作かけて北野映画に昇華された。だから暴力のエンタメを最終章に期待すると、がっかりするし、面白さが無いと思ってしまう。物語の終わりとは何かを見ると伝わると思う。
車の黒色の独自性、反射。
車の黒色が印象的だった。ぬるっとした映り込みは計算されたものだろう。これも表面的なかっこよさ以上に物語の澱みてはないかと思った。ブレードランナーがその作品世界を描くものでなく、より物語を描く映画であるなら、この最終章でもブレードランナーを表現していたのだと思った。どうしてブレードランナーじゃなくていいけど。
冒頭の車の黒色に滲む赤色のタイトル、タイポグラフィも印象的だ。赤色が滲んで見えるのは黒との色干渉に過ぎない。
ぬめる質感を持つ黒が決して明るくない未来を暗示しているようだった。
銃の音。
劇中のようにはっきり音が聞こえることは実際にはないかもしれない。銃の方向によって音の最後の方などが変化するのでは?と思うが、それよりも発砲することの意味が大きいと感じた。その発砲音が印象的に聞こえる時は、単に暴力表現ではないものがあった。
登場人物のそれぞれの人生を想像させる。
仁科貴さんのバーテンダーがよかった。若干前に出てくることが予想される登場ではあったが、徐々に物語に強く関わるようになる点が実際の成長のように感じる。そして大友の誤射で死ぬ。まさに続けることを拒否するシーンだ。
張会長の横にいた金髪の男も印象的だ。今回は所謂北野映画的な演出は多く出てこない。しかし、キャラクターとしてはこの金髪の男は大変に北野映画的だ。
彼らの未来が閉ざされたこともこの映画が終わらせる物語なことを見せつけている。
会長と花菱会の幹部の話。
これもバレバレのシーンでずっこけるほかない。張会長が日本語も話せることは容易に想像つくのに。この想定できる幅が狭い人たちが生き残ろうとする狡猾さに未来の無さを見る。
漠然とシリーズ最終作としてだけ見るともったいない、作家のフィルモグラフィの重要作品として繰り返し見る作品じゃないかと思いましたよ。