わが社、我が家でもあるが、には、庭がある。主に花を栽培しているがネギも栽培している。ネギの場合は買ってきたねぎを植えておくと増えるということもあるが、ほかにも簡単な葉物野菜を栽培している。なにより花が多い。
以前、馬鹿にした意味ではなく意識高い系の市民活動(政治的活動のプロ市民じゃないよ)の方の庭を造る手伝いをした。暇だったからというのが理由でそれ以上はない。その人の家が代々所有する山が岐阜県の飛騨地方にあり、二、三時間ほどかけて行き、ほぼ雑草の草木と苔を採取して庭へ植えるのだった。この行為も理屈をつけると素晴らしい仕事のように聞こえる。しかしやっているのは先に書いたようにまだ小さな木を採取して植えるだけのことだ。因みに苔はその辺の道にある見た目がよさそうなものをちょっと拾って植え替えてきちんと育つ環境を作ってやればそこそこ見栄えの良い緑の絨毯のようになる。移動に時間をかけるものではない。
さらに言えば小さな木々も、正直な話、DIYショップなどで売っている苗と変わらぬものなので、気持ちと経済的な事情などを考慮しても買ってきたほうが圧倒的に安かったんじゃないのかと思った。これも因みにわが社の庭では適当に拾ってきた苗だったり、花は結構買っているようだが、木の場合は鳥が落とした糞に混じっていた木が芽を出したのでそのまま育てて2mくらいに伸びでいる。あまり大きくしても管理できないので高さは調整している。
戻って、その意識高い系の人の庭の件、元々庭師に作ってもらったが、日を追うごとに家の人たちが適当に大根を数本育てたり、たいして手入れしていなかったようで雑な感じになっている面もあったが、なんとか亭(なんとかの部分は忘れました)と名付けられているので、雑だろうが大根が植えてあろうが、すごく高級に感じた。そもそも屋敷が大きいので高級なんだろうが、その割には庭が狭かったな。でも名前がついていると高級感を持ってしまう。しかもなんとか亭だ、亭ってつくとちょっとグレードが上がっている気がする。こういった庭を手作りで改修するものだった。手作りであって自分たちの手でと書いていないのは、庭師が陣頭指揮どころか、重要なところをガンガン担当しているからだ。ユンボが出てこないという意味で手作り。
振り返ってわが社だ。件の庭より広く、年中花が咲いている。といっても今は椿と山茶花の二種のみだが。雑然としているのはどちらも差がないが全く違うのは屋敷の広さと名前の有無だ。屋敷は今更どうにもならんが名前は何とななる。名乗ればいいだけだ。あ、違うことあったな。さっき書いた花だ。なんとか亭は年中何らかの花が咲くように作ってはいない。イタチが来て自然て良いよね、みたいに作業した人たちで談笑する。うちはデブの野良猫がやってきて迷惑している。どちらも招かれざる客だ。
どこか白々しい(と僕は思った。そこに実感がないのだ。作り物のコンセプトはスポンサーに金をせびりに行くとき以外は後付けのほうがいい。)コンセプトはどういうわけか嘘くささよりも、庭に実感を持たせてくれる。庭じゃなくてもなんでもそうで、意外と屁理屈は人を納得させるために機能している。だからプレゼンテーションに有用なのだが。
名のない我が家の庭は、出来上がりはほぼ同じで、むしろ花を絶やさないだけ見るものが何かはあるのに、これが何か説明するもしくはふわっと表現する文がないだけで単なる場所でしかないのだ。
意識高い系だけあって人に見せるプレゼンテーションが長けているということだろうか。その庭とたいして変わらないような庭を毎日見ているのに、あえて何時間もかけ、泥だらけになっていつも庭で見ているような木や苔を摘んでくる虚しさを感じたからだろうか。
それなら、あんたも庭に名前を付けてコンセプトとか屁理屈つければいいじゃーん。というのは、年中花が咲くように毎日手を入れ続けることがいかに骨の折れることか知らないのだ。まぁなんだかわからんようになったが、わが社の庭には年中何らかの花が咲いていいるが名前はないしコンセプトもないよってこと。
今はつぼみや葉っぱです。