ブレードランナー 2049(原題/Blade Runner 2049、監督/ドゥニ・ヴィルヌーヴ 2017年 アメリカ)
ブレラン2(めんどくさいので2!)見てきた。前半に二回眠た。眠たのは、カット割りのタイミングの悪さ。進められるはずの物語をわざと進めていないような感じがした。 更にフレーズがループするサウンドトラックは音量レベルを問わず眠気を誘う。聞いていて気分の良くない鬱陶しいフレーズなのだ。このフレーズがKの心象で物語も全く進まないさまに合い過ぎている。ブラスターの音は良かった。ゴン!と響く音が痛く辛い感じだ。
映画自体は面白いか?と言われたら面白くないよ。内省的な物語にカタルシスは無いよ。これを一回しか見てないのに理解しているとか嘘だよ。全然映画を見つめていない。とか思った。スピナーは良い。幾つかバリエーションが登場するので楽しいよ。
攻殻機動隊を筆頭にフォロワーが多すぎて何をやっても本家なのに真似に見える辛さ。もうこのビジュアルは普通なのだ。なにより日本に住んでいればある程度このビジュアルを現実に見ることが可能なのだ。勿論、このかっこ悪いと思っていた日本語や日本をそのまま出してるだけで格好良く見えることをプレゼンテーションしてしまった凄さは尊敬しかない。
前作を凌駕するかという点については、ブレランが物語ではなく雑に云うと作品世界のビジュアルショックが全てであるので、それを単に継承しているだけでは越える的な話はしても意味が無い。ブレランのずっと雨の降るうっそうとした街に巨大なわかもとやコカ・コーラのCMが流れるのはブレラン前にはなかった。こういう前にはなかったことはブレラン2(めんどくさいので2!)には無かった。コカコーラのCMがあっても比喩としての解像度が上がった状態でそれは新しい技術であっても新しい表現ではない。今回は作品世界より物語を見る映画なのだ。それはタイトルに年が入っていることでも分かりやすい。さらに副読本としての三本の短編も時系列で歴史を補完していることも重要だ。
「ブレードランナー ブラックアウト 2022」(原題/BLADE RUNNER: BLACK OUT 2022、監督/渡辺信一郎)
「2036:ネクサス・ドーン」(原題/2036: Nexus Dawn、監督/ルーク・スコット)
「2048:ノーウェア・トゥ・ラン」(原題/2048: NOWHERE TO RUN、監督/ルーク・スコット)
これらは内容もだが、むしろ前作との間の映像が存在していることが大きいと思う。
ブレラン2(めんどくさいので2!)は前作を見ていないとさっぱり分からない(言い換えると全く面白くない)が、前作のブレードランナーは、その前作が無い状態だったので何度も見ないと面白いかどうかさえ判別がつかない(作品世界設定の面白さは一回見れば理解できる)ものだったので、そういう点でも前作を踏襲している。
で、確かにキカイダーとロボット刑事の最初の実写のTVシリーズと漫画(石森章太郎名義の漫画)を見ておくとブレラン2の理解が深まる気がしたね。(物語やテーマが良く似ている)
この二つはレプリカントの結末の二択にようなもので、ロボット刑事は自らがロボットであることを受け入れるし、キカイダーは悪魔回路《イエッサー》を受け入れることで嘘をつき、兄弟ロボットを破壊することが出来る様になる、正と負で揺らぐ、人間と同じ感情を手に入れる。ブレランシリーズはこの結末をまだ描いていない。何故かKからデッカードへ物語の主軸が移ってしまい、デッカードの物語として終結するのだ。あくまでもブレードランナーはデッカードの個人的な物語なのだろう。
物語はKの自分探しであり、自分はレプリカントの子ではないか?と疑い悩むが単なるレプリカントでしか無いことを知る。これはA.I.の子どもが里親である人間の母と再会し、また自分が特別であることを確認したいと旅することになぞられるようだ。A.I.では、AIは幼いものとして自分が特別ではないことを伏せたまま終わるが、Kはおっさんなので残酷に言い渡される。
Joiは火の鳥の復活編に登場するロボット、チヒロのようだ。Kにとっては個性のある彼女だが、他人にとってはただの商品であり、データだ。
復活編は人とロボットが融合し新たなロボットとなり増殖するが、ブレラン2では儚くスタンドアロンのデータとして破壊される。
ブレランも面白い!とは思っていない。作品世界は興味深いと思っている。それと物語の面白さとは別。
ブレードランナーシリーズはエンタメとして面白いか、楽しいか、共感できるかという点で問えるものではなく、感想として「つまんねーよ!」であってもそれは正しく、つまらないからダメ映画ではない。