貰ったチケットの期限が間近だから今すぐ行こうと母に言われて同行した。これだと単なる親について行っているだけなので説明すると、一応池坊の師範でかつては活け花を教えていたのです。僕もちょっとだけ教えてもらいました。という前提で地元の活け花組合みたいな感じの集まりの活け花展覧会へ行ったのですね。活け花組合というとダサいにも程がありますが、地元にある活け花の流派が殆ど集まっているようでした。
写真は受付で聞いたら撮ってよいと言われたのでメモとして撮りました。
感想としては池坊とそれ以外の作品展のようでした。というのもそれ以外の流派が大体方向性が同じで池坊だけが全く違うのです。それ以外はもっさーっとしていて、ほとんど枝を払っていないのです。そしてケレンが過ぎる。過ぎると言っても見た目びっくりさせるようなものでもなく、本家に対してずらすだけような手法が目につきました。それ以外の流派であっても池坊の方法論を流用したり発展したものがあってもよさそうだが、それは無かった。意図的に池坊の方法論を無視しているようにも見えた。そういったこともほとんどの流派が同じで、仮に池坊から分派しているとするならば、ただ池坊が嫌だったからとか練習が辛いから好きなことだけやりたいとか、古典を理解せずに否定した結果がこれか。みたいな感じで、まぁ、何でも続けるのは大変だし新たに組織を立ち上げて運営するのも大変な力がいることなのでそこは尊重すべきなんだけど、古典から学んだものをカジュアルな広告業務や作品作りで活かしたいと思う自分としての視点からはやはり池坊とそれ以外でしかなかった。
てなことで池坊に絞ってみていくと、生け方が盛花《もりばな》と立花《りっか》に大きく分かれていまして(生花《しょうか》もあります。これは出来るだけ少ない要素で表現する手法と考えてください。)、盛花は盛ってあって、立花は立っているのです。アホみたいですけど見た目はそうです。どちらも表現したい大きなテーマは自然です。植物を利用して森羅万象を華道家の作家性も交えて作品とするのです。自然物を扱っていても出来上がる作品は人工物です。そこを外すと自然は自然をありのままに見せれば自然であると思いがちです。んなこたぁないです。所詮人たるもの、自然の中では小さなものです。で、その表現をするための基本的な作法はあらかじめ完成された古典で、公式みたいなものです。最小限のユニットというか。それを外したところで意味がありません。骨はダサいから外しても筋肉だけでは動けません。アダマンチウムに入れ替えたところで骨格には変わりません。そういう骨格にあたる技法や公式の上に作られているように見えました。で、盛花は見た目寄せ植えのようなので気楽ですが、そうですね、かわいい女の子を描いた密度のある萌え絵と思ってください。渋い色使いやレイアウトもありますが、傾向としては身近な表現をするものと言い換えられるのではと思います。ってやると、活け花を知らなくても多少見やすくなるでしょう。ならんかったらすまん。さらに間違っていたらどうしようと思ったが、活け花を学んだり本質を理解するものではないからな。あくまでも他のことをやりたいための知識としてだ。
立花については、オリジナルの戦艦をデザインし、それを真正面から見た。と考えてほしい。それだ。実際に正面から奥と手前に向かって並べて活けて、それらを左右にバランスを取るような構成になっている。活け花は鑑賞する方向がある。ほとんどが正面だ。そこから見るためにそのほかの方向からも作りこんでいる。当然というか背面は見えないし、かといって側面から見ても破綻の内容に作られている。例えば3DCGで静止画やアニメを作るときにカメラ方向から見て欲しい絵になるようにオブジェクトを変形させるような発想だ。この場合はカメラ以外からの絵は破綻していることがあるが、活け花はそれがない。その他に密度の緩急や空間のバランスなど立体的ではあるが、平面構成でもあり、レイアウトの基本を学ぶようなこともある。興味の導入にはそれ以外の流派でもよいと思うが、学ぶならにわか的興味であっても古典を見ることは大切ではないかと思う。
結構気になったのは花が枯れていること。完全に茶色く朽ちているはずはなく、しおれているような表現が適当な状態な花がたくさんあった。人口の光が良くないとも聞き、単に水が持たないだけではと思わないでもないが、毎日水を変えたり、活け変えたりするとのこと。母が展覧会に出品していた頃は三日に一回水を変え、花を活け直していた。それでも間に合わないくらい花は弱っていく。多分これは花が綺麗にぴんと張っていて鮮やかなんだなと想像しながらの鑑賞でもあった。生きているが死んでいて、自然に見えても人工的であり。活け花に限らず矛盾の中で作品は制作され、日々の生活も同様なんだ。
活け花に限らず、グラフィックデザインも映像も、絵もカジュアルなイラストと呼ばれるものでも古典的な基本ルールはある。知らずに学校などでも学んでいなくてもそれにのっとって作っていることは多い。でないとへったくそだったり、見ていて気持ち悪く感じるものになるのだ。無意識に会得するのも良いが、ある程度自覚して学ぶことも冷静になれてよいんじゃないかと思う。僕は集団でいることや学校や試験が苦手なのでこのように外野から覗くことで少しずつ学んでいる気になっている。