シン・ウルトラマン
監督/樋口真嗣 2022年 日本
シンウルトラマンは空想と浪漫、そして友情を描いた空想科学映画。これはとてつもないネタバレ。なにせこのままだ。
事前情報からそれこそサブタイトル的にも空想科学映画と銘打っているのになぜシン・ゴジラ的リアルな解像度を求める人が多発するのか。何故だを連発し、すべてを疑問にする前に与えられた情報をきちんと読み解こう。感想と共にお前らを叱る。あ、面白かったよ。
改めて『ウルトラマン』第3話「科特隊出撃せよ」(ネロンガ)、第9話「電光石火作戦」(ガボラ)、第18話「遊星から来た兄弟」(ザラブ)、第33話「禁じられた言葉」(メフィラス)、第39話「さらばウルトラマン」(ゼットン)を見た。これらとウルトラQの数話を超ダイジェストにしたもので構成されている。庵野秀明氏が主たる関り方をする映像作品は、マッシュアップ、リミックス、サンプリング、コラージュ、モンタージュ、オマージュで作られているので、ルーツを知らないと表面上の面白さしかわからない場合があり、やや損をしていると思う。
表現としてはドリル。特撮のオムライザーが脳内で流れるくらいにドリル!ガボラもドリル!ゼットンもドリル!ここまでドリルを出すのかと言わんばかりのドリル。60年代生まれのオタクはドリルへの執着がひどい。執着と言えば長澤まさみのお尻への執着もひどかった。長澤まさみ演じる浅見弘子が気合を入れるときにお尻がアップになって自分で叩くのだが、かなり気になるくらいの頻度で登場する。ウルトラマンの肉体の感じとの対比だろうか。禍特対のメンバーがやたらアップでセリフを多めに話すことが何度もあり、これも大変生々しく、なんか皆、若干太っているような、人体を意識させる表現になっている。これにウルトラマンのメタリックの肉体が対比されて、キモイというか、ウルトラマンの質感をこれでもかと意識させられました。先のドリルもそうですけど、リアリティよりも過剰な質感を見せつける方向性を感じました。模型を作ってる感覚ですね。
赤バックで変身するグングンシーンはオリジナルのバランスが良かったな。どうして同じように作れないのか作らないのかは不明。(あのウルトラマンの造形は極端にパースがついているのは存じております。というか人類の一般常識なので、それをなぜ踏襲しないのかという問題。)
シンウルトラマンは古参のオタクというととても怒るマニアの方々は酷評するだろうが、モーションアクターに古谷敏さんと庵野秀明氏がクレジットされていたのであのウルトラマンは本物。これでもダメなんだろうな。それは多分、同じオタクが公式にウルトラマンをリメイクできて悔しいのう、ってことだと思います。
劇中でウルトラマンの存在を知ってから人類がウルトラマンに過度に依存したり、それに対してウルトラマンがたしなめるような意思表示をすることもTV版に登場する。このようなTV版のモチーフをサンプリングするかのようにコラージュされている。これだと引用先を知らないと楽しめないじゃないかと鑑賞をあきらめるかも知れないが、『今夜はブギー・バック』も『Shangri-La』もオリジナルを知らないからつまらないとかないだろう。
ウルトラマンのマスクは造形の都合上、三タイプに分別されるが、それに対する劇中の設定は取り立てて無かったが、シンでは人と融合する前、その後でマスクの形を変えている。こういった造形上の都合を劇中設定に落とし込むことがいくつか行われている。パゴス、ネロンガ、ガボラのデザインもそうだね。この辺りはガンダムなどでも後付けの設定としてつじつまを合わせるようなことをしているので、お馴染みの方法論だと思う。
実相寺アングルはラブ&ポップや式日くらいからずっとやっていて、性能の良い小型カメラが低価格でリリースされている現在であるからこその場所から撮れるのは確かだと思います。単純に変な位置から撮ってるだけでなく、画面の形やサイズ、位置を変える効果を狙っていると思います。小津作品でもありますよね。(子どもが映画見てんじゃないんですから、自分の中である程度知識やそこから考察できる程度の知恵くらいは持ち合わせるべきです。)
ウルトラマンらしいとはいえ、くどかったな。次のシン仮面ライダーではどうするんだろうか。文字組の途中で直角に折れる組み方をする市川崑映画を踏襲後に自分のものにしてしまったように実相寺アングルも庵野アングルになってしまうのだろうか。
劇中のウルトラマンは着地が現行のTVシリーズのように土煙を上げない。逆の表現でスッと静かに着地する。残身もない。飛ぶときの予備動作もほぼ無い。やせ型で強大な力を発揮する点も超人であることに理由がない、もしくは今見ている人の理解を超えていることの表現としてわかりやすいと思った。飛んでいるときもほぼ音がしない。空気中を飛ぶのでそれなりの飛行表現はあるが。
ウルトラマンは戦闘中に言葉を発しない、シュワッチとは言わないし、そもそもTVシリーズでも言っていない。(仮面ライダーV3も「ブイスリャー」とはほぼ言っていない。当時でもそう言った記憶はないし、最近確認したら後半でそう聞こえるときもある程度だった。)あえて言うならおっさんのくしゃみがウルトラマンの戦闘中の声に近い。それも劇中ではなかった。とにかく静か。光線技のTVシリーズのほぼ完コピ状態も素晴らしかったね。メフィラスの光線もほぼそのまま。しかし、デザインや設定は全体のつじつまを合わせるようにアップデートされている。
カラータイマーがない代わりに体表の模様らしきものの色が変化していた。カラータイマーもよいがこちらの方が自然な感じがする。
作品世界でのβカプセル(システム)は単に巨体化させるものでウルトラマン的な超人になる装置ではないことは今回のオリジナル設定ではないか。
タバコの使い方がうまかった。煙草を吸っているときの意味がきちんとある。主にだめな状況の表現だけどとても分かりやすい。分かりやすさは見える絵から取捨選択しないとできないかもしれない。禍特対の作戦中などの難解そうな単語の会話はセリフの密度を上げるための方便だと思う。禍威獣対策にはこのように高度な単語の飛び交う作戦が必要だということが分かればいいだけで内容は多分問わない。だって全部空想だよ。仮に正しくあったとしてもフィクションなんだ。この難解そうな単語の会話ではあるが、口調は難解そうな単語を話す人のそれではなく、一般的な人(その基準が難しいが)の口調と変化が少なかったので、怖い感じや本当の難解さはないと思った。役所や教授が集まったときの会話は単語の難解さよりもその口調にあると思う。早口以外にね。
徐々に感想言おうか。
TV版の任意の物語をいくつか選んでダイジェストととし、その中で描くことを取捨選択するつくりは新規性を感じた。と言ってもとてつもなく目新しい発見ではないが、時間密度の高さもあって満足度は高かった。任意の一話を拡大したり物語の展開する場所を拡大したような相棒やドラえもんの映画版のような作りではなかったのも僕はよいと思った。ザラブとメフィラスの関係があまり物語に関係してこなかったので外星人たちが連携している感覚はなかったね。外星人や禍威獣の大きさがまちまちだったのも良かったな。これまでは人が入って演技することが前提だったのでみな同じくらいの体格だったからね。ウルトラマンも含めて大きさや体型も含めて設定を考えられるのは自由度が上がっていて良いと思う。3DCGで作られていることで変形や可動部分が自由に設定できることも表現力が上がっている。まぁ今はアベンジャーズに限らず、仮面ライダーシリーズですら3DCGで怪人やライダーを登場させているので今更なんだけど、着ぐるみに拘っているとイメージの実現に限界出るからね。
ウルトラQから物語をスタートさせているのも禍特対の存在を説明するのに必要だったのだろう。これだけで前日談の映画が作れそうだ。シンウルトラマンのタイトルが出るところもTV版ウルトラマンに寄せているがマーブル模様が平面的に動いてウルトラQになるのを3DCGで立体的に変形させている。シンゴジラからシンウルトラマンに変形するんだけど、ここはシンプルにTV版に準じてもよかったのではないか?絵の密度は今回のほうがもちろん高い、しかし、そこに意味があるかというと、視覚的に複雑になっただけに感じた。先に青バックに「東宝映画作品」が昭和ゴジラシリーズ後半のようなレイアウトで出てしまうので、自分たちが好きな画面を羅列に見えた。出てくるカットに連続性を感じられなかったということ。ウルトラQパートの禍威獣たちがのちに登場する禍威獣たちとデザインを揃えているのも丁寧な作り(きれいに絵を描くとかミニチュアを作る意味ではなく、きちんと映画全体を考えて作るてこと。)見えた。実相寺アングルは画面が窮屈に見えることと役者に芝居をさせないきらいがあるので作っている立場では楽しいとは思うが、そろそろ控えめにしてもよいのではないか。キャラクターとしてのウルトラマンのリメイクは楽しく見れた。VFXで当時からできることが増えたからといって、絵柄をリッチにする方向ではないのが良い。TVシリーズが継続中なのでそちらとも方向性が違っていて、別の作品世界にしているのだ。つまり、ウルフェスでシンウルトラマンの登場するウルトラマンとゾーフィは出てこないし、地方のウルトライベントでも登場しない。と思いたい。そういう消費の仕方をするものではないと思う。
ウルトラマンと禍威獣の戦闘シーンは望遠や広い絵が多用されていたが所謂ドラマパートは絵が狭く、先に挙げた実相寺アングルの多いのでとても小さな映画に見えるときがある。小さいとは閉じた映画、余計にわからないな。狭い世界での出来事のように見える。ってこと。TV版のアングルを意識してのことかもしれないが。もとになったTV版の話をほぼ順番に繋げていることが物語の自然な流れに見えるのか、矢継ぎ早に登場する禍威獣と外星人にことさら唐突な感じはしなかったな。ウルトラQパートの効果もあるのだろう。最初にやたら禍威獣がいることを紹介しているからね。特殊メカを出さなかったのもウルトラマンの異質性がわかりやすく見えていた。後半を動かすメフィラスとゾーフィが気持ち悪かったね。メフィラスは怪演だと思う。ゾーフィはメフィラスとウルトラマンが戦っているときに後ろでゆらゆら立ってるのがキモイ。感覚が地球人と全く違うのがわかる。宇宙人は地球人と発想が根本的に違うことを殆どのフィクションで意識していないなと思った。イデオンやマーズアタックは白旗や鳩を地球とは逆の意味で捉えて違いをディフォルメしていた。今回のウルトラマンでは全く違うセンスであるようにしてあった。それでも毎度謎なのが高度な知能や文明をもっている宇宙人なのにみな一様に全裸であったり、顔にバリエーションがないことだ。高度ゆえに全裸、ウォッチメンのDr.マンハッタンがそうだね。顔が全部同じなのはなんだろう。これも高度な知性ゆえの身体性の消失なのか。
未だ感想に至っていないな。結果的に庵野秀明氏の実写映画をウォッチし続ける状態になってしまっているのでこれもと思い、意を決して見たシンウルトラマンではあるが、劇場で見て良かったと思っている。時間軸の画面の設定の密度が詰まっているのは単純に楽しい、巨大な異星人が地球で自己犠牲を学ぶ映画として面白かった。3DCGを含むVFXがしょぼいとかスマホで撮っている画質問題などについてはそんな映画はほかにもいくらでもあるので気にならないですね。結局はオタクの公式二次創作じゃないかについてはだからなんなんだ、です。それを許可している製作会社が存在するのでそれでいいのです。仕事なんですよ。嫌なら自分で作ればいいんです。しかし、それはまさにオタクの二次創作なんですよ。ウルトラマンも禍威獣も外星人も今作る形になっていたと思います。キャラクターに対して制作者の愛情がある。
この映画を面白くなかった人は現行TVシリーズの豪華版第一話的映画を期待したのだろう。シン・ゴジラと同じディザスターシミュレーション的映画を期待したのだろう。タイトルに空想科学映画と書いてあるのはわからなかっただろうか、その文字が少し滲んだようになっているのはわからなかっただろうか。
シンウルトラマンが面白いと思ったウルトラマンを知らなかった人は、これは30分ながら毎週オンエアしていた時代が50年以上前にあったことを改めて知ってほしい。そしてこれを面白いと思っていた人をとてつもなく馬鹿にすることを当たり前のようにしていた時代があることも知ってほしい。