シェイプ・オブ・ウォーター(原題/The Shape of Water)
監督 ギレルモ・デル・トロ 2017年12月 アメリカ合衆国
シェイプオブウォーターを見た。
作品世界が1962年ころのアメリカで、男性が圧倒的に優位に立つ社会が背景にあり、その中での様々なマイノリティを描いている。とにかく少数派の居場所が切ない。主人公のイライザの隣に住むゲイの絵描きの失恋はつらく感じた。
主演の怪物に対して関連を見つけたくなるのが監督が同じの映画ヘルボーイに登場するエイブだ。同じ水棲生物のクリーチャーなのでよく似ている。その続編のゴールデンアーミーでは敵対する双子の妹に恋をしていた。結末は異なるがシェイプオブウォーターも異なる生き物の恋だ。ヘルボーイに対してシェイプオブウォーターは比較的リアリティを高めで描かれているので、それがキャラクター造形にも影響している。リアリティ高めというのは漫画的な要素の強いヘルボーイよりもであり、この映画自体はリアルを表現するものではない。意外とキャラクターたちは作品が言いたいことのために結構ディフォルメされてたからね。
この映画のモチーフになっている映画はアマゾンの半魚人ギルマンで、話の骨格は人魚姫だ。性別が逆になっているが大きな差ではないだろう。差があると思うのは男から見た女を違う生き物と見ているからではないか。
日本だとこの構図の分かりやすい映像作品がいくつもある。異形の生物との恋愛はフランケンシュタインの怪物《バラゴン》、続編のサンダ対ガイラ、怪物になってしまった男と没落する古典舞踊を舞う女性との悲しい恋を描く、ガス人間第一号、TVシリーズだが人と関わりを持とうとするが叶わず殺されるウルトラQのラゴン。古い作品ばかりとは言え、日本では感覚的にも馴染みやすい内容ではないかと思う。
とか言っていても監督は全く違うことを言っている。ラゴンもギルマンもラゴンもギルマンも参考にしておらず、あえて言うなら先に挙げたアマゾンの半魚人で、怪獣映画よりもおとぎ話であり、半魚人のデザインも参考にしたのは皮膚の表現に北斎の鯉の鱗や、全体のシルエットをギリシアの神々の彫刻をイメージしている。
監督は現代のおとぎ話を作りたかったらしい。一般論の大きな視点より個人的な小さな視点に注目することを物語の骨子にしているようだ。中でも女性キャラがアクションを起こす部分は、手話でFワードを話すシーンなど怒りと勇気が表現されていて力強かった。Fワードがよいのではないのは当然として、いままで虐げられていた立場から自分の言葉で異を唱えることが素晴らしいのだ。
主演の二人が話せないので、その分周囲の人たちの声が大きく聞こえる。かといって話せないことがマイナスに感じられず、鑑賞している僕らが無い声に耳をそばだてることになり、心が通うことに集中できる。
すでにヒットメーカーになっているデルトロなので、予算を潤沢に引き出すことも可能だったらしいが、自分の自由に作れるほうを選んだそうだ。そのためほかのTVドラマのセットを改造するなどの工夫があった模様。