良かった!お金を払って見る映画です。新しいゴジラの基準だと思う。既存のタイトルを新たに作ることの優秀なプレゼンテーションであり、リファレンスだと思う。テーマについてどのように描けばよいかまじめに考えられている。怪獣同士で両手を使ってプロレスをしたり、ビルを壊したりする映像は全くありません。ビルは壊れますが、プロレス的に壊れることはありません。
2015年1月22日のコメントで、「怪獣映画に対しての個人的な気持ちとしては、怪獣が存在する現実を表現して貰えたらよいと思っているので、それ以外のお祭り的チンドン屋的な方向性のものは興味が無いです。」と書いているので、シン・ゴジラは自分にとって分かりやすく思った通りの映画だったのでした。
とりあえずゴジラの見た目をチェックしていこうか。
今回のゴジラは劇中で成長する。尻尾だけしか見れなかった第二形態、ウルトラマンA以降のウルトラシリーズに登場しそうなデザインの第二形態、これはものすごい速さで走ります。走ってる感じはエイリアンのチェストバースターが胸から飛び出た直後みたいな感じです。
深海魚が急に釣り上げられて目玉が飛び出た様子を思い起こさせると同時に、70年代に多かった目の大きい怪獣を揶揄しているようにも見えました。そしてリアルタイムに第三形態に変身。ここまで腕が二の腕くらいまでしかないです。この形態はゴジラ的なシルエット、特に首から頭にかけて大きく変化し、いわゆるゴジラ的な形に変化します。そして赤い。直立したまま寝るのはキリンか。
シン・ゴジラの第四形態は現時点での最終形態。僕らの知ってるゴジラのシルエットだ。今回は内臓が見えているようなデザインであり、殆ど見えないが。足も人の形ではないため、人が中に入る方式では再現できない。
放射能炎を吐くときの口がいい!その前にゲロを吐き、一旦火炎放射のようになってから放射能炎。直進性はX-MENのサイクロップスのよう。
背中から多数の光線が出る、イデオン感もいいね。各種光線は吐き出すようにして出てることもよい。受動的に吐いているような。
ゴジラは大昔のT-REXの想像図を基本にしているので背筋を伸ばし、尻尾は体のバランスを取ることなく勝手に動く。放射能炎を吐いているポーズがすごくいい。そもそもゴジラ自体がフィクションで荒唐無稽な存在なのでリアルでも何でもないんだが、ゴジラという作品世界の中のリアルを捉えていると思う。
ゴジラ(1954版)と帰ってきたウルトラマン(DAICON FILM版)を見ておくといいね。
物語について簡単に言うとこの二つを混ぜたものがシン・ゴジラです。
やってること(ストーリーではなく)は1954年版に踏襲していて、国の力ではなく、民間の技術でクライマックスを迎えるところも同じです。ちょっと何やってるかわかりづらいんですけど、ちびっ子が働く機械(建設機械など)に興味を持つきっかけになるんじゃないかな。リアルな物体がゴジラに近づくことで大きさを実感できるシーンでもある。電車が活躍する点も1954年版を意識している。TVの中継を利用して時間経過と情報提供をこなしている。ここも1954年版にあったものだ。といってもその後の怪獣ものでは一般的に使われる表現なので、そこをアップデートしていると見たほうがいいだろうね。シン・ゴジラはもちろん独立した映画として見て構わないが、1954年版を見てから鑑賞するといかにシン・ゴジラが1954年版を意識しているかよくわかると思う。オープニングも1954年版と同じだ。シン・ゴジラは1954年版の政治家が巨大生物の存在について議論しているシーンをピックアップしてリメイクしている。
1954年版は太平洋戦争を、シン・ゴジラは東日本大震災を意識している。というか、意識しないとだめでしょう。しかし、シン・ゴジラの作品世界では東日本大震災は起きていない。
シン・ゴジラはエヴァ的であるといわれることが多いが、帰ってきたウルトラマン(DAICON FILM版)、ラブ&ポップ、式日、キューティーハニー(庵野版)GAMERA1999など庵野氏が監督した実写映画を見ると、そうではなく、単に庵野氏の個性であり手癖であることが分かると思う。
庵野氏は自分の好きな膨大な映画などをオマージュし、パッチワーク、再構築しながら緻密に作り上げる。これを知っていないと一々エヴァに似ていると言い続けなければならない。エヴァンゲリオン自体がすでにオマージュとインスパイアによって構築されたものなので、引用を指摘するならば、オリジナルや原点を当たらなくてはならない。お前ら、エヴァ、エヴァうるさいんだよとも言える。
これはNEVER。
シン・ゴジラの感想を書く人たちの中で、総監督の庵野秀明さんや監督・特技監督の樋口真嗣さんを知らないという方がいらっしゃった。この二人はすでに日本の映画界では知らないでは通らない人たちなので、特にお金をもらって書いているような人は反省してほしい。
昭和のゴジラシリーズの特撮が見立てであるならば、ゴジラと戦う建機や鉄道も超兵器として見立てられ、まさに昭和の特撮だ。
ゴジラを沈黙させるのは自衛隊やアメリカの兵器でなく、民間の技術である点も1954年版を踏襲している。
この踏襲の仕方はスターウォーズシリーズを見てみるとわかりやすい。同じことの繰り返しの中で表現をしている。
子供じみた超兵器も、部隊も出てこなくてうれしかったね! 1984年版以降もリアルで怖いゴジラを標榜していたはずなのに、なぜが毎回変な部隊と荒唐無稽な超兵器が出てきていた。
そういえばSEALDsみたいなのがデモしてて、時代の先端行ってんなーwとか思った。立場はともかく、必死こいて仕事してる時に「やめろー!」「ばかー!」とか言われたらとりあえずムカッと来るよね。思想云々よりも目の前の現実の行動に対して一々反応する感じが良かった。
電車が好きなちびっ子にもおすすめだ。新幹線が大活躍する。この活躍をちびっ子が実感するのは映画を見た後に新幹線などに乗ったときだろう。
ヤシオリ作戦とヤシマ作戦は、戦え!マイティジャック第12話と第13話に登場の弾超七(森次晃嗣)がポケットから赤いニッパーを取り出すシーンにウルトラセブンを圧倒的に意識している演出を思い起こさせます。名前自体もウルトラセブンをもじってんだが、このピンチにニヤリとして内ポケットに手をやる瞬間までの視聴者のテンションの上がり方は尋常じゃないと思う。しかし、弾超七がモロボシダンではないように、ヤシオリ作戦はヤシマ作戦ではない。
曲がエヴァみたいって批判は、ジョン・ウィリアムズも伊福部昭さえもまとめてディスっている。こちらに以前まとめた。
ゴジラのテーマの変遷。
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怪獣大戦争のマーチの変遷
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使用曲のいくつかがモノラルであったり、ほぼオリジナル音源のままというのがちょっとわからなかった。見た劇場が良くなかったのだろうか、音がくぐもっているように感じる部分があった。
エンドロールでかつてのゴジラのサントラがそのまま使われているが、GAMERA1999でもエンドロールでガメラマーチがそのまま使われている。
市井の人をメインキャラクターに入れず、ほぼ描かなかったことは良かった。これについて批判もあるようだが、反対にこれまでのゴジラシリーズは官僚も政治家も殆ど描いてこなかった。いたかも知れないが、それはカリカチュアライズされたもので、ここまで突っ込んで描き切ろうとはしていなかった。市井の人については、特定の誰かではなく、まさに市井の人として大きくなくても取り上げられていたと思うよ。最初の攻撃が中止になったのはその市井の人の非難を優先したからだしね。官僚や政治家ばかり登場しているが、それだって取り換え可能なくらいに没個性だ。なにせ首相も途中で死んで、代理が登場する。それよりも無いことで印象が強くあるのは、人が死ぬカットがない。街としての被害は甚大なのに全く人の死を感じさせない。
ラストの被災者の子供たちのカットも良かった。シンプルに希望の表現だ。
映画全体が俯瞰で作られている。すべてが俯瞰されているのだ。だからキャストの誰かに感情移入するとか共感するとか、安い通り一辺倒な見方だけではシン・ゴジラを見ることはできない。できないっすよ。
シン・ゴジラは政治家にも見てほしいなあ。当然相当なフィクションなので、こうじゃねぇ部分は多いだろうけど。
シン・ゴジラが全然ダメ映画だと、これまでのゴジラシリーズの殆どがうんこ映画になってしまうのだった。
シン・ゴジラがゴジラじゃないというなら、尻尾を抱えて放射能炎で飛行するのはゴジラなのか。あれはいいのか。息子とかいるけど、あれはいいのか。
批判に対しては「ならば、ご自身でゴジラ映画を作ってください。」と言っていい映画だと思いました。
見終わると「で、あのゴジラ、どうするんだよw!」と突っ込みたい人、続出だと思う。